アイデンティティの確立

以前、セミナーや研修に呼ばれ話の中でアイデンティティという言葉を使うと、カタカナ用語は分からないから使わないでくれと役員レベルの人からちょくちょく言われました。

日本語では自我同一性ということになると思いますが、こちらの方がまた違った意味で分かりにくいとも言えます。

カタカナ用語は外国語ではなく、一つの広い意味の内容を表す固有名詞として扱われる日本語となり、その単語を知っている人とはコミュニケーションがし易くなってきているます。

余談はさておき、ブランディングにおいてこのアイデンティティの確立はもっとも重要なポイントです。

性同一性障害という言葉をときどき耳にします。
心は男性だが体は女性、もしくは、心は女性だが体は男性と感じるもので、着ぐるみを着ているような感じだそうです。

そうなったことは無いのですがイメージしてみると分かるような気がします。かなりの違和感です。

コーポレートアイデンティティ、いわゆるCIだとか、ブランドアイデンティティにおいて、このアイデンティティの確立がなされていない状況は違和感を感じて当然なのですがそれを感じられるセンスを持ちあわせている人材はかなり少ないのが現状です。

要は外面と内面のバランスを取るということですが、実は内面から入るのはかなり難しい。

人は内面を磨き、外面はある意味どうでもいい、みたいのが常識的だったりします。

趣味などはまず格好から、という人が多くいるが、それも一理あると思います。

モノ溢れの時代、ビジネスにおいても外見から入ってみる、と考えてみる必要もあると思いませんか。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2021年09月05日05:41

起承転結




起承転結。世の中はどうも、この仕組みでできているようです。「起」事の起こり、「承」それを受ける、「転」状況が転じる、「結」結果が出る。生活も人生も仕事も、この起承転結の展開の善し悪しで決まります。 まず「起」。毎日、毎日、私たちの身の周りにはさまざまなできごとが起きています。次に「承」。起きたことをどう受けるか、つまり、どう気がつけるかですが、既にここからズレてしまっていることが多いようです。そして「転」。事が転じるということですが、できごとをどう解釈するかということでもあります。悪いできごとを悪いままに終わらせるのか、それとも良い方に考えなおして好転させるか、です。そして最後に意義のある結びを持ってくる。これが「結」で、ひとつの物語が完成します。 自分の考えていることや行動を当てはめてみると、どうも中途半端な物語を作っています。物語が愚痴になっているような場合は、「承」のあたりで止まっていて「転」にも「結」にも進んでいきません。たとえ「結」まで行ったとしても「もうやんなっちゃうよな〜」などという、落ちにもならないような結び方にしてしまっています。 物語は必ず、理想的な「結」に持っていかなければなりません。そうでなければ自分自身も納得できず、せっかくの経験が身につかないからです。生活の、人生の、仕事の成功物語を創造できる人を目指したいと思います。
どうあるべきかを考えることのススメ
自分の今後を考える時に「どうなるのだろう」と予測していたのでは、運を天に任せただけの受け身になってしまいます。「自分はどうなりたいのか」あるいは「どうあるべきか」を自分物語の最後に持ってくることによって、行動的な自分が生まれてくるのではないでしょうか。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年05月20日14:05

失敗の法則、成功の法則




誰かが失敗したことを同じようにすれば、同じように失敗できる。これが失敗の法則です。一般的に、失敗というのは誰もがしやすいことです。それに対して、成功の法則。いろいろな成功者という人たちの成功例をマネしても、同じように成功するとは限りません。そこが失敗の法則と大きく違うところです。
「成功する要因」を整理していくと、結局は、感謝のココロとか努力とか、人のココロを大切にとか、実行力とか、運とかツキといったものの集大成で起きているようです。この成功事例というのは、あくまでも自分の励みにするとか先哲者を尊敬するひとつの物語として受け取るにはいいのですが、非常に参考にはなりにくいものです。
その点、失敗事例はいいと思います。
先人がしてくれた失敗を同じようにすれば同じように失敗できるのですから、マネをしなければいいのです。とても参考になります。
人の成功をうらやんでいるよりも、ひとつでも多くの失敗例に耳をかたむけて現実を見つめていった方がいいのではないでしょうか。しかし、ここで気をつけなくてはいけないのは、しっかりとプラス思考にしていかないと落ち込みかねないということです。成功事例を聞いて明るくなってから、失敗事例を聞いて身を引き締めていく。これが良さそうです。
失敗を活かすことのススメ
失敗した経験が自分を成長させてくれたのであれば、失敗は成功するための過程のひとつということが言えます。だからといって「あれは失敗ではなかった」と思うよりも、「人にとんだ迷惑をかけてしまった」「あの時の自分はこんな足りないところがあった」と失敗を真摯に受けとめ、「もう二度と同じあやまちは繰り返さない」と心に誓うところに、もうワンランク上の自分になる扉が開かれるのではないでしょうか。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年04月20日08:31

人格貧富の差




昔に比べて生活水準は確かに向上しましたが、金銭的な貧富の差はなくなっていません。一見、物質的に豊かに暮らしているようでも、家や車のローンに追われて家計が火の車の人は多くいます。商売でいくら儲けても、もっともっと儲けたいと際限のない人もいます。
教育も普及して、誰もが同じように学校へ行き同じように知的教育を受けているにも関わらず、知的貧富の差もなくなっていません。
パソコンやインターネットが出現したことによって、ホームページや電子メールで情報交換ができるようになり、情報貧富の差も大きくなってきました。そしてこの情報貧富の差が、新たな知的貧富の差や金銭的貧富の差を生み出しています。
いろいろな貧富の差が生じている中で、最終的に何を目指せばいいのでしょう。人は、金銭や知識にばかり偏ると、心が貧しくなるように思います。何かというとお金のことばかりいう人や、知識ばかりをひけらかす人、自分のことしか考えない人は、人格の貧しさを感じてしまいます。
みんなそこそこ豊かになったため、物に対する貧困さはなくなりました。その分、メンタル的な部分で助けを求めている人が多いように感じます。
みんな人格者の出現を求めている、なのに自分がなろうとはしないのです。
物やお金でいくらでも身を飾れるようになったこの時代、いちばんの貧富の差は「人格貧富の差」なのかもしれません。
人間性の向上のススメ
物やお金があふれる社会になったことで、人格をどんどんなくしていく人と、それではいけないと人格を磨いている人との差がとても出ているのを感じます。自分の楽しみだけを追求している人と、世のために尽くそうとしている人の差は、これからさらに開いていくのではないでしょうか。お金も知識もどう使うべきか、人格を身につけることでわかってくることがきっとあるはずです。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年04月10日08:30

「教え方」の前に「教えること」




教育の大切さが叫ばれています。しかし論議の多くがどうも「教える内容」よりも「教え方」の方に偏っているように思えます。なぜでしょう。コメントしている人たちは、教育に携わってきた教育者と呼ばれる人たちです。
人間は恐ろしいもので、「何かおかしい」とか「だからダメなんだ」とか反発心を持ちながらも、自分の生きてきた世界から抜けられないところがあります。 確かに「教え方」を変えることで、教育の水準が上がる部分はたくさんあります。しかし今は「何を教えていくか」がより問われているのではないでしょうか。「子供の人格を育む…」などといった言葉はよく聞きます。
ではそのために何を教えればいいのでしょう。「家庭での教育が」とか「社会の人たちが一つになって」とか「教育制度を見直して」などよく耳にしますが、具体的な内容はちっとも伝わってきません。 昔は、社会や家庭や身内から、人間としての教育を受けていました。今はどうでしょう。どんなに知識教育の水準が上がっても、それを受ける人間の基本ができていなければ、何にもなりません。
今、本当に必要とされている教育とは学校においても、社会においても…教育の前の教育。人間性を育てるための教育なのではないでしょうか。
理由を教えることのススメ
しつけというと、あいさつをする、散らかしたところをかたづける、おとなしくいい子にする、などと一般的には思われていますが、大切なのは、なぜそれをしなければならないのかです。あいさつは人間づき合いのけじめでもありますが、人に声をかけることで相手をうやまったり喜んでもらったり気づかったり、それを教えることが大切です。バスの中で騒いではいけないのも「運転手さんに叱られるから」ではありません。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年03月23日11:24

アトピー、アレルギーからのメッセージ




アトピーやアレルギーの症状が世間で騒がれ、その人が特別で、その人が弱いからだなどと言われているようなところがありますが、本当にそうなのでしょうか。これは決して個人レベルのことでは済まされないと思います。
さまざまな環境問題が影響し、これだけ多くの人がいろいろな症状で悩んでいるのを見たり聞いたりすると、かえって何の症状も出ない人の方がおかしいのではないかと思ってしまうのです。
アトピーやアレルギーのひどい症状が出ている人は、実は敏感であったり、正直だったりする人なのではないか、と捉えることもできます。
敏感な人は、みんなに危険を知らせてくれる信号になってくれています。かわいそう、気の毒に、で終わらせてしまうのではなく、どうしたらそういう人たちが安全に暮らせる社会を作ることができるのかを考えることが必要です。環境に対応して変わっていくことも大切ですが、悪環境に順応できたり強くなったりして、胸を張るような人間にはなりたくありません。
強い、弱いを論じる前に、なぜ今そういうことが起きているのか、そして自分が置かれている立場ややっていることはどうなのかを見つめられる人間になりたいと思います。
変なことは変だと思える人になることのススメ
現代人は強く見えても、実は昔の人より弱くなっています。泥水を飲めばお腹をこわすし、ハダシで外を歩くのは大変です。それなのに自分より敏感な人を弱い者あつかいしてしまう。間違った規則の中で平気でいられる人だっておかしい。「これを覚えて何になるんだろう」と疑問を持たず、言われたことをとにかく何でも覚えていく子供が評価される、そんな世の中を見返る必要がありそうです。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年03月06日18:37

言葉の意味より、事の意義




幸せには何通りあるのでしょう。楽しさや悲しみも何通りあるのでしょう。 多くの人が「もともとの言葉の意味」と「自分の体験」や「外部からの情報」と照らし合わせて、ひとつのイメージに決めつけてしまっていないでしょうか。
もともと幸せという言葉をとってみても「私はこんな運のいい思いをした」「僕はこんなにすばらしい発見をした」というような、さまざまな人の思いから誕生したもので、事の起こりがあったから言葉が生まれてきたのです。だから本当は、一億人いたら一億通りの幸せがあります。
それなのに私たちは、幸せとはこういういうものだ、楽しいとはこういうことだと決めつけてはいないでしょうか。そして「これくらいでは幸せとは言えない」とか「こんなことを幸せと思うなんて」などと余計なはからいをして、本当の自分にとっての大切な幸せを捨ててしまってはいないでしょうか。
何かに麻痺してしまっているのでしょうか。
「幸せって何だろう」と考える前に、今そこで起きていることの意義を見てみる。そこにはいろいろな楽しいこと、かわいいこと、すごいことが起きているはずです。その気づけたものがきっと、全部あなたの「幸せ」や「楽しさ」なのです。
幸せを見つけ出せる人になることのススメ
誰も幸せだと思わないささやかなことでも、あなたの心を照らしてくれたのなら、それはあなたにとって幸せだといえます。「幸せ」というものを勝手に定義づけてしまったら、身の周りでたくさん起きているさまざまな幸せの種に気づけません。まず自分の心に素直になり「こんなことを幸せだと思える自分なんだ」と受けとめてみることで、自分という人間がわかってくるのではないでしょうか。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年02月26日16:38

企業のオモテ理念とウラ理念




一般的に、企業には「企業理念」というものがあります。その企業の基本的な考えやあるべき姿を文章にうたったものですが、実際にそれは機能しているのでしょうか。
少なくとも「この理念をつくったおかげで会社が良くなった」なんて話はあまり聞きません。意識のされ方、使い方はともかくとして、その理念通りになっている会社がどれだけあるのかと思ってしまいます。
企業理念とは、あくまでも理想として掲げた明文であって、本質ではありません。本質は、結局が、毎日繰り広げられている実際の企業活動や社員の行動の延長線上にあります。 「心を込めて」とか「最高のサービスを」などと言いながら、社員のやる気が全然なかったり、利益ばかりを追究して粗悪品を世に送り出している会社だってあります。
理想と現実。企業のこの姿を「オモテ理念」と「ウラ理念」の関係と呼んでいます。あまり本質からかけ離れたオモテ理念を掲げている企業は、かえって信用できなく映ります。人間でいうと、口先だけの「ええカッコしぃ」というところでしょうか。どんなに言葉で立派なことをうたっても、実質が伴わない理念はかえってみっともないと思います。
会社を「癒しの場」にすることのススメ
企業とは、一人ひとりの夢を叶える自己実現の場であり、そういう意味で「癒しの場」であるはずなのに、実際は「労働の場」になってしまっています。ぺったんこシートの営業車、電磁波だらけのオフィス、カップ麺の夜食。従業員は大切なパートナーであり、彼らに社会貢献のために本当に実力を発揮してほしいと思うなら、このあたりから見直す必要がありそうです。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年02月19日07:57

失敗の法則、成功の法則




誰かが失敗したことを同じようにすれば、同じように失敗できる。これが失敗の法則です。一般的に、失敗というのは誰もがしやすいことです。それに対して、成功の法則。いろいろな成功者という人たちの成功例をマネしても、同じように成功するとは限りません。そこが失敗の法則と大きく違うところです。
「成功する要因」を整理していくと、結局は、感謝のココロとか努力とか、人のココロを大切にとか、実行力とか、運とかツキといったものの集大成で起きているようです。この成功事例というのは、あくまでも自分の励みにするとか先哲者を尊敬するひとつの物語として受け取るにはいいのですが、非常に参考にはなりにくいものです。
その点、失敗事例はいいと思います。
先人がしてくれた失敗を同じようにすれば同じように失敗できるのですから、マネをしなければいいのです。とても参考になります。
人の成功をうらやんでいるよりも、ひとつでも多くの失敗例に耳をかたむけて現実を見つめていった方がいいのではないでしょうか。しかし、ここで気をつけなくてはいけないのは、しっかりとプラス思考にしていかないと落ち込みかねないということです。成功事例を聞いて明るくなってから、失敗事例を聞いて身を引き締めていく。これが良さそうです。
失敗を活かすことのススメ
失敗した経験が自分を成長させてくれたのであれば、失敗は成功するための過程のひとつということが言えます。だからといって「あれは失敗ではなかった」と思うよりも、「人にとんだ迷惑をかけてしまった」「あの時の自分はこんな足りないところがあった」と失敗を真摯に受けとめ、「もう二度と同じあやまちは繰り返さない」と心に誓うところに、もうワンランク上の自分になる扉が開かれるのではないでしょうか。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年02月10日18:16

化粧直し、心直し




街から電信柱がどんどん取り外されています。
狭い歩道をなお狭くして邪魔だったり、はり巡らされた電線が異様な光景に見えて、電信柱がキライでした。安全面を考えても、街の美観を考えても、一日も早く取り外されればいいのにと思っていました。
しかし電信柱が取り外された街は、広々とすっきりした反面、なにかガランと空虚で寂しいものに映りました。電信柱が美観を悪くしていたという以上に、取り外した方が、街並の悪さが際立ってしまった、と感じるのです。
安っぽい、もしくは自己主張の建物ばかりが目立っているようです。実は、電信柱がこれらの味気ない建物を隠し、生活感のある人々の営みの風景を作ってくれていたのだという一面に気づきました。
電気の開通とともに生まれた電信柱のある風景…。かつては文明への憧れと喜びで迎えられたものだったでしょう。この文化にも似た日本の風景が消え去ろうとしています。これからの街づくりに関わる人たちも、そこに住む私たちも、それ以上のすばらしい街を創り上げていくのだという想いを込めて、覚悟していかなくてはならないと思いました。
飾り物を取って自分を見ることのススメ
街の話だけではなく、人間にも同じようなことがいえます。いろいろな肩書きやファッションで身を飾り、本質が見えなくなっている場合が多いからです。見栄やプライドも同じかもしれません。飾り物を取り去ってもチンケにならない人間性を、一つ一つ、歳を重ねながら作り上げていきたいものです。  


Posted by モチヅキ セイジ. at 2009年01月17日11:39